断想 — レーニン峰への向き合い方、違和感
はじめての7,000m峰「レーニン峰」に登頂することができて嬉しいはずなのに、どこか掴みどころのない違和感が残った。
なんだろう。違和感は「ズレ」を伝えるシグナルだと思っている。言語化してみて軌道修正できたらいい。
そもそも私にとっての山はどんな存在だろう。まず立ち返る。
自分という存在を確認するために、山に行くのだと思う。
そこで覚える「いのちの実感」は意味だ。
自分が自分で在れる場所としての森、川、山。
居心地がよくて、いきいきとなれる。
縁起の中で存在を確認するための場。
どんなことであれ、他の人のテリトリーを犯さなければ「自分が自分として存れる」ことは心の調和にとって大切なこと。
逆に、自分が自分であれないような環境にいると苦しくなる。余裕がなくなると心を失い、配慮の心も薄れていく。
小さいように思えても、心身のバランスのとれた状態でいるということは、それだけで社会的なことでもあると思う。
人には、それぞれ違ったやり方でハレ(晴)の時空間つくっているのだと思う。
でないと、ルーチン化・効率化で予測可能性に満ちた定住社会・情報社会(ケ・褻)で窒息してしまう。
山はその対局にあるものの一つ。予測不可能で、身体的ストレスに満ちている。
フィジカルな苦痛は直接的に喜ばしくはないけれど、日常生活で溜まった垢を削ぎ落として、気枯れてしまった抜け殻に活力を吹き込んでくれる、禊のような効能も感じる。
レーニン峰の深夜の静かな稜線は、そういう場所だった。
けれど、ほとんどの時間は「ここではない」という感覚がうっすらと基調をなしていた。
人気の山だけあって、トレイルもキャンプ地も登山者で賑わっていた。
これだけ沢山の人が来るのは、「レーニン峰登山」というものが「7,000m峰入門」という位置付けで商品化されているから。
でなければ、こんなに多くの人が登りに来るのだろうか。違和感の正体はこの辺りに潜んでいる気がする。
もし、メートル法が少し違って7,000mに僅かに届いていなかったら?
エージェントのキャンプサイトやアクセス、トレイル(固定ロープ etc. )がここまで整備されていなかったら?
自分も含め、それでも登る人はどれだけ残るだろうか。
たまたま読んでいた本の中でラインホルト・メスナーの思想に触れて、このような問いが生まれてきた。
「7,000m峰入門」というラベルは、どこか次は8,000m峰、セブンサミットといったある種の既定路線に乗っかっている気がする。
ラベル欲しさといった顕示的な動機だったり、既定路線上のTODOをペケしていくようなやり方では、すぐに「その人にとっての意味」からはかけ離れてしまい、無限に連鎖する記号消費に陥りやすい—体験も消費社会の商品。
記号は際限なく生成され、終わることを知らない。
そういうマインドだと、山に入っても、「登れるか登れないか」という重要性が必要以上に増す。今ここを忘れ、結果に疎外された機心(〜のための、損得勘定的)に取り憑かれてしまう。一瞬一瞬に、落ち着きを持って立ち会えなくなる。純粋に山・世界・自分と向き合うことは難しい。
フリークライミングでも、数字(グレード)を追い求めたり、ライバルとの競争心が加わると、似た部類の心が生まれる。とにかく、純粋に岩と向き合えなくなる。 そういう時、純粋に向き合えていないからか、岩に対して申し訳けなくなる。
ヴォイテク・クルティカが、ピオレドール生涯功労賞の受賞を辞退した、その生き方を思い出す。
難易度で登山を推し量ることは、①難しさだけでは取りこぼしてしまうアルピニズムの意味(それぞれのクライマーにとっての意味)を矮小化するに加えて、②そうした土壌の上では、競争心や虚栄心を生み、エゴの拡大を助長すると。
とにかくマーケティングによって借り立てられた社会的ラベルが動機になったり、数字を追い求めた先に根源的な充足はないように思える。
処方箋は多分、外発から内初へ。誰かが決めた価値基準に乗っかるのではなく、それぞれの審美眼をもってして対象や方法を見極めていくこと。審美眼が働いていたかという評価基準は多分、事の前後の充足感と虚しさのレベルと割合。容易くできることではないけど、その先に心から面白いとわくわくすることがありそう。