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縁起のなかに、明滅する、わたしという現象



これは、「私」が「わたしという現象」として捉え直されるまでの、体験と思考の一部を記録したものです。


山に入るたびに、「わたし」という存在を問わざるを得ない体験が重なり、いつしか「わたしとはどんな存在なのか」と思考を巡らせるようになりました。


「わたし」という存在の認識が、固定的なものから、動的で現象的なものとして捉え直されたことで、心が少し楽になりました。


たとえば、「自信」という言葉のイメージが変わりました。
これまでのわたしにとって、自信の「自」には固定的なイメージがありました(そのため、自信をもつことはできませんでした)。


しかし、「わたしは現象である」と捉え直したとき、依拠する先が、「自分」という範囲を超えた、
偶然性に満ちた空間に在る流れ——という、まだ言葉にならないなにかへと変化していくのを感じました。


そして不思議と、「自分自体は信じられないけれど、わたしの奥底に流れているこの偶然性の場を愛おしく思い、
その流れに身を任せよう、信じよう」という、軽やかな心持ちが生まれてきました。


これを読んだ誰かが、少しでも楽になるきっかけになったら嬉しいです。
読んでくれて、ありがとう。


十月二十一日、新月にて
あたらしいわたしと出会う



山、ほどき、つなぐ場


岩と呼応し、標高を上げてゆく。いろいろなものから、切断されてゆく。

私は融解し、無となり、新たなつながりと邂逅する。

宇宙的な広がりをもつ不思議なネットワークへ開かれてゆく。

わたしが、いまここに存るということを教えてくれる。


・・・


山は、私を解体し、世界とつなぎ直す場だ。

そこで、「私」は「わたし」へ還ってゆく1


・・・


山や森にいるとき、心は穏やかだ。自然と同調し、調和するから。

その穏やかで調和のとれた心は、歩き続けたり、壁を登ったり、森の芳醇な香りや、風にゆれる木々のゆらめき、
菌の蠢く世界を感じたり、山に呼応し続けることを通じて、時に、無になる。


・・・


今年は、たくさんの時間を山で過ごした。小川山や瑞垣の壁、遠くはヒマラヤから中央アジアの高峰まで。
そして、少しずつ、独りで壁に入りはじめた。そのなかで、山はいつしか、自分が自分として在れる場所として、息づきはじめる。


そんな場で出会った、たくさんの、愛おしい瞬間たち。


そうした瞬間たちに通底するものを感じたとき、「私」という確固たる実体はほどけ、
代わりに「関係のなかで立ち上がる一瞬の現象」としてのわたしが浮かび上がった。


そのとき初めて、「わたしとは何か」という問いが、言葉になる前に、体験として立ち上がってくるのを感じた。
この問いを認識しはじめたのは、今年の夏、レーニン峰に登った時のことだ。





レーニン峰 —— 切断・無我・縁起生起


レーニン峰の山頂を目指し、独り歩く真夜中に、感じたこと。


```


切断があって つながれる世界
ここに在ることを 感じられる時間
縁起の感覚が 立ちあがる

250722 Lenin Peak


```


吹雪のなか、見渡しても人の気配はなく、静寂が包み込む世界が、そこにはあった。
雪を被った、長くなだらかな稜線、吹雪、星空、それと、わたしがいる。


不思議なことに、いろいろなものことから”切断”される、高所や壁のなかで、
宇宙的な広がりをもつ何か全体的なものとの”つながり”が、そこにはあった。


その時、わたしは限りなく無色透明に近く、自己という存在が薄らいでゆくのを感じていた。


しかし、逆説的にもそこは完全で、「わたしはここに在る」という確かな手応えがある。


・・・


この感じ、知っている。長期縦走で山の世界にどっぷり入らせてもらったときの、あの感覚。
壁を登るなかで身体が主体的な意志をもつかのように動き始める、あの感覚。

それは、「つながりが主体」としか言いようがない。

このとき、潜在的に感じていた、掴みどころのない悲哀や恋しさ、個我を牢獄として体感してしまうような苦しさ、
不完全さという感覚は、相対化されることで認知され、静かにほどけてゆく。




わたしという現象 —— わたしを捉え直す


「わたしはここに在る」と表現するときの「わたし」という言葉は、
普段何気なく使うときと、体験に基づくそれとの間に、乖離があるように思える。


おそらく、「わたし」という言葉には、いくつかレイヤーがあるのだろう。


体験に即したわたしの感触は、関係性が主体として現前してくるような、動的なイメージをもっている。
わたしという自己が、無条件にアプリオリに存在しているのではなく、関係性があってはじめて存立している2


「縁起のなかに立ちあがるわたしという現象」という表現が、よりいっそう、しっくりとくる —— 縁起 = 繋がり・関係性。


山とのあわいを生きるわたしは、流動的で、どこからが外部か不明瞭な、曖昧さを生きる。


・・・


一方、固定的で実体を伴うかのような印象も、確かにもっている。


動的なわたしに出会ったことで、固定的なわたしが相対化され、はじめて意識に上がった 3

固定的な主体のイメージは、社会的なレイヤーを生きる上で要請される 4 5


社会は責任の所在を問うからだ。


しかし、わたしたちが生きているのは、社会的なレイヤーに限らない。
わたしたちは、社会が複雑化する以前、言語以前の豊穣な世界も生きている。


複数のレイヤーを同時に生きている。


・・・


わたしという存在を、単一のレイヤーから捉えることは、並列する他のレイヤーを生きるわたしとの間に乖離を生み、息苦しさにつながる。
わたしというものは、関係性によって生じる現象であり、絶対固定的なものではない。


流転し、偶然性を生き、刹那的に明滅を繰り返す存在だ。

このことを忘れてしまうと、苦しい。


そして、そう素直に感じられたとき、全存在への、存在していることの奇跡を祝福するような、暖かな気持ちが込み上がる。
そのような状態にあるとき、人は、個の領域を確保し、他者との距離を適切に測り、寛容でいられる。それだけで、社会的なことだ。


逆に、わたしという存在を感じられないときや、わたしらしくいられないとき、人は、徐々に心を失い、神経質になったり、攻撃的になったりする。





心象化・宮沢賢治『春と修羅』


「わたしという現象」という自己感覚は、体験的に現れてきたものであるが、これはわたしだけに生じた感覚なのだろうか。否、普遍的な感覚に思える。

古今東西の——これまで説明にも使ってきた——仏教の縁起や無我の概念、インド哲学やヨガ(梵我一如)、あるいは登山家の著述にも(特に高峰登山やエクストリーム)、その他さまざまな文脈で、類似の記述が散見される。


・・・


この感覚を言葉にしようと記憶を巡らせていると、電子(electron)の波と粒子の二重性 6 や、粘菌の生活環 7 が思い起こされた。


電子は波として可能性を広げつつ、観測されると粒子のように瞬間的に現れる。

粘菌は採餌のために動的に全体を動かす一方で、環境が変わると静的な形に移行する。


このような性質は、観測や関係性によって刹那的に立ち上がる「わたしという現象」を理解する手がかりになる。


・・・


そんな折、偶然、宮沢賢治の『春と修羅』に出会った。

そこには、まさにそのまま「わたくしといふ現象は」という自己の感じられ方が表出されていた。

詩を読み進めるうちに、自分の体験を説明できる言葉に出会えた気がした。


```


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治『春の修羅』


```





中動態 — 身体が意志を持ちはじめるとき


稀に、意識と身体の主従関係が逆転するような、不思議を体験する。
メモとして残していた、その体験の記録がある。


```


離陸すると、音が消え、雑念が消え、無になる。
手足が先に動く。
意識はただ、運動を後からなぞるだけ。
知覚全体を少し上から見つめるもう一つの視点がふわっと現れる。
意識と身体の主従関係が逆転しているようだ。
意識が薄れていく、その働きを傍観する目は、いったいどこにあるんだろう?

250923 小川山 イエロークラッシュ


```


これは、フローと言われる状態で、いろいろな条件が揃ったときに、ときどき、入ることができる。
例えば、壁を登るとき、それが能力的に限界ギリギリであり、極度に集中力が高っており、最低限の準備も整っている、動機づけも十分、などなど。


このとき、意識が身体を支配しているという感覚は崩れ去る。


身体が意思とは離れ、刹那的に目の前の壁に呼応しつづけるのを、後から、ボーッと眺めることしかできない。


意思から身体へ、主導権を明け渡す。
その移行には介入不可能で、委ねは享楽そのものだ。


本当のところ、身体運動による“意志からの主導権剥奪”と言った方が適切かもしれない。
意志していると思っていた側には、そもそも主導権などなかったのではないか。


「わたしがしている」と思っていることは、実際のところ、
「わたしがさせられている」のかもしれない。


そうであれば、自由意志は錯覚だ 8
意志というものは生まれてくるものであって、生むものではないのかもしれない。


・・・


もうひとつの、不思議がある。


導かれるがままに、身体が運ばれてゆく中動態的 9 な状態では、だんだんと、岩とわたしの境界は曖昧になってゆく。
岩という、対象であったはずのものとの距離が限りなく近くなり、いつのまにか、岩との距離が生まれる以前の「あいだ」と感じられる空間が拡がる 10


もしかすると、わたしとモノを別のモノだと認識する前の、あいだの世界があるのかもしれない。
あいだの世界は、宇宙的な静謐と生命的な充足感を持って広がる、生成の場だ。
わたしは、あいだに司どられる存在なのかもしれないし、あいだそのものなのかもしれない。


・・・


この空間を、どのように捉えたらよいか。


このような言葉になるようでならない感覚を見つめていると、わたしはただ「空」であり、
有るのでもなく、無いのでもない、という仏教の教えが分からないで分かるような心持ちに、一瞬なる 11


あたりまえだと思っていたことが、揺ぎはじめる。
そして、自己意識が薄れていく様を観ているとき、ある疑問が自然と生じてくる。



—— わたしが限りなく無に近づいてゆくとき、それを知覚する存在は、どこにあるのだろうか?




世界がわたしを通して、自らを見るのかもしれない


意識の輪郭が溶けてゆき、宇宙に漂う微塵のように限りなく小さくなってゆく瞬間。
同時に、その微塵はどこまでも拡がり、無限的な大きな何かへと吸い込まれてゆく。


そんな感覚を覚えるとき、自我は消滅している、もしくは、消滅しかけているのだろうか。
この拡がりを、人は宇宙や、大我、大日如来、神、あるいは世界と呼んできたのだろうか。


自己霧散から拡がる諸感覚が、少しは言葉によって把握されたように一瞬は思えたが、
即新しい問いが開け、より分からないことだらけになってしまった。問いに戻ろう。


—— わたしが限りなく無に近づいてゆくとき、それを知覚する存在は、どこにあるのだろうか?


まだ確信ではなく、うっすらと予感された仮説にすぎないが、

わたしという現象を知覚しているのは、宇宙そのもの、世界そのもの、あるいはあいだの世界なのかもしれない。


そんな感触が、一瞬の星座として浮かび上がる。

掴もうとすると、霧のように消えてしまう。







Footnotes

  1. 私とわたし: 「私」という字は、農作物を表す「禾」と、私有・囲い込みを示す「ム(=△)」から成る。もともとは「公のものを私のものとする」という意味をもつ。つまり、私という概念は私的所有や個我の意識の表れであり、階級社会の形成とも関係している。ここではそのような「社会的・公的な個」としての〈私〉と、縁起の視座から見た〈わたし〉を区別するために、後者をひらがなで「わたし」と表記している。『気流の鳴る音』(真木悠介)
  2. アプリオリ: 経験に依らず前提として存在するもの。
  3. 補足 人間の考えは二つのものが相対していないと出てこない、という意味で。『東洋的な見方』(鈴木大拙)
  4. デカルト的な近代自我: 社会から要請される固定的な主体のイメージ。
  5. 補足 脳科学では、私という自己の感覚は、固定的ではなく動的に生成されることがわかっている。自我は、脳のある部位やニューロンに存在するのではなく、神経ネットワーク活動間の関係性のなかに立ち上がる現象。
  6. 電子の粒子と波動の二重性: 電子は、波として広がる性質をもち、その存在は観測されるまで確率的に分布している。観測されると、波としての広がりの中から、あたかも一点に収束したかのように現れる。これに似て、「わたしという現象」も観測・意識されることで刹那的に立ち上がる。
  7. 粘菌の生活環: 粘菌は、アメーバ状で全体的に動き採餌したかと思えば、環境変化に応じて子実体〜胞子となり静的に拡散・休眠する。このように生と死、個と全体、静と動が滑らかに往還する遊動的な在り方は、熊楠が縁起や生死観を読み取った対象としても知られる。縁起のなかで流動的に立ち上がる「わたしという現象」のイメージを理解する手がかりとなる。因みに、熊楠は人の心はひとつではなく複数の心からなるものと考えていた。
  8. 自由意志の錯覚: 例えば、わたしたちが一秒先に何を考えているかを予想できないように、わたしたちは何を考えるかを、実際のところ選択することはできない。脳科学の実験(リベットらによる自由意志の研究)では、脳が行動の準備を整えるのは「意識的な決定」よりも約0.2秒早いことが示されている。つまり、意識をもつわたしは、すでに始まっている行動をキャンセルすることしかできないのだ。
  9. 中動態: 「惚れる」ということは、「よし、惚れるぞ」と意志して惚れるような純粋な能動ではなく、誘惑するものがあってはじめて生まれる心の動き。「惚れてしまう」「惚れさせられた」の方が、実際の感覚に近い。中動態は、「する・される」という能動・受動にみられる一方的な関係を超えた、誘惑と応答のあいだに生じる相互的な状態。アフォーダンス的(認知科学)に言えば、環境(例、壁)がわたしの動きを誘発し、わたしはその誘いに反応するかたちで動く(登る)。このような「作用と反作用が区別できない状態」を、中動態と呼ぶ。『中動態の世界 意志と責任の考古学』(國分功一郎)
  10. 主客未分(西田幾多郎): 主観と客観、つまり対象とまだ分かれる以前の、言語以前的な状態をいう。この主客未分の経験を、彼は「純粋経験」と呼んだ。普段は、この純粋経験を解釈や意識というフィルターを通して見ており、その結果、主と客が分離した世界を生きているのだと思う。
  11. 空(仏教): ものごとが独立して存在する実体をもたず、互いに依存・関係し合って存在することを指す。